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かっこいいにんげんになりたい

かっこいい人間になりたくて社会でもがき苦しんでる人の雑記です

死とは世界の代謝である

 祖父の葬儀があった。死因は肺炎。しかし、享年88歳ということもあり、個人的にはほぼ老衰のようなものではないかと思っている。

 

 八年前、私の実母が死んだ。四十代半ば、死因は末期癌。癌だと判明してから一年も経たずに亡くなってしまったと思う。あまりにも目まぐるしく、私にとっても家族にとっても苦しい時期だった。あまりよく覚えていない。

死ぬってなんなのだろうか、なぜ生き物は死ぬのだろうかと八年間ずっと頭の片隅で考え続けている。未だに整理がつかないのだ。

 

 

 幼い頃から、大好きな母や父や妹が死んでしまうことが怖くて怖くてたまらなかった。色々な生き物を飼っていたため、生き物が死ぬということをリアルに体験していたからだろうか。神社ではいつも、家族が長生きしますようにと願っていた。私の家族はみんな長生きをして、老衰で死ぬのだと思っていた。なのに、母は癌で若くして死んだ。

癌が判明し、治療をしていくなか目に見えて弱っていく母を見ていてもなぜか「絶対に死なない」と思っていた。お涙頂戴ドラマのように、癌に蝕まれて死んでしまうような、そんな世界はフィクションの中だけだと信じていた。

 

 出来る限り、病院へお見舞いにいった。休日も友達と遊ばずに病院で、薬の副作用で苦しむ母の横で本を読んだりしていた。

母は、最期は息が上手く出来ず、痰がからまって言葉が話せなかった。ある日、聞き取りにくい言葉を一生懸命聞いた、聞き取れたのは「(治療のために食事制限や入院をせず)もっと美味しいものを食べて好きなことやればよかったな」と言う言葉だった。絶対に治すから応援してね、と笑顔で話していた母がそう言った。

そんな死ぬようなことを言わないでくれと、涙が止まらなかった。

 

 その数日後、言葉も話せずお互いにもどかしく少しイライラしていた日だった。私はその日、宿題が山ほど出された為に少し早く帰りたかった。母は何かを伝えたくて必死に話していた。その場にいた誰もその言葉を理解出来ず、喋り疲れた母は、がっかりしたようにうなだれて伝えることを諦めた。やり取りに疲れた私は、あろうことか帰り道に、こんなに辛い毎日が来るならばいっそのこと死んでしまえば…と考えてしまった。その日の夜に母は亡くなった。

悔やんでも悔やみきれない。私があの日、もし、それを願わなければ母はもう一日でも生きられたかもしれない。命日の次の日は、初めて外出許可がおりた日で、家に帰れる予定だったのに。

痛みを遠ざけるためのモルヒネでぼんやりとした母が頭に焼き付いている。痰がからまって息ができず苦しそうな母の姿が思い出される。

もう八年間も、ずっとずっと苦しい。母はとても優しい人だったから、こんなにずっと悲しむことを望んでいないだろうと思う。でも忘れられない、辛い。苦しい。

 

ホスピスに入っていれば、もしかしたらもっと楽に逝けたかもしれない。死に目にも会えたかもしれない。伝えたいことをお互いにたくさん伝えあえたかもしれない。

家族の誰もが、母が死んでしまうかもしれない現実から逃げていた。母はもしかしたら死ぬことを受け入れたかもしれない。なのに私達が希望と治療を押しつけてしまったのかもしれない。選択しなかった世界ばかりを望んでしまう。

 

 

インターネットで見つけた、「後悔の大きさはその対象への想いの強さである」という言葉が、少しだけ私を救ってくれる。エゴに満ち溢れた言葉だが、同じように自分を罰し続けている人がいたら、もしその人の救いになるのならこの言葉を広めたい。

 

 

 八年間、ずっと考えた。なぜ人は死んでしまうのだろうか。理由がなければ、あんなに辛い思いをして生きる理由が無いではないかと。

結論から言えば、私は死ぬことに理由もなにも無いのだという結論に至った。

 

「死ぬことは世界の代謝である」。

 

髪の毛が抜け落ちるように、爪が伸びて切り落とされるように、古い細胞が死ぬように。そこに意味は無くて、世界が生きるために当たり前に必要なことなのだ。

魂を成長させるためだとか、前世の罪を償うためだとか、そんなのは全て誰かがつくりだした妄言で。私は、死んだ後は本当にただただ消えてしまうのだと考えている。魂なんて無くて、今、自分と世界を認識している脳味噌の電気信号が途絶えて消える。ただそれだけのことだ。

そして生きている人間の世界は続いていく。

 

死後の世界があるのならば、現代の科学をもってその断片でも捉えられているはずだ。死んだらそれで終わり。

 

母は幸せだっただろうか、生きていることに意味はあったのだろうか。考えても答えは出ない。出ないから、やっぱり生きることにも死ぬことにも意味は無いのだ。死後の世界も来世も分からない。分からないのは無いも同義だ。

 

今は、死ぬということは消えるということと同じ感じがする。もし死に絶える間際の人間を、小舟に乗せて海に流したとしたら、もしかしたらどこかで生きているかもしれないという希望が生まれる。シュレーディンガーの猫ってこういう話だったっけ?

 

道を歩きながら抜け落ちた髪の毛のことなど誰も気にもとめない。死ぬってたぶんそのくらいのことだ。生きることも、そんなに特別じゃない。