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かっこいいにんげんになりたい

かっこいい人間になりたくて社会でもがき苦しんでる人の雑記です

○○が好き!は本当にそう思っているのか

「○○が好きでなくてはいけない」

「○○が好きな自分になりたい」

「○○が好きな人が好き」

「○○が好きな人がかっこいいと思えるから」

「○○が好きであるべき」

「○○が好きだと好かれる」

「○○が好きだと評価されるから」

 

 

だから○○が好き。

 

 

 

 

 

 

 

↑の理論で好きになろうとしてるもの、本当に好きなものだろうか。

 

絵を描くこと、歌を歌うこと、ものを作ること、着飾ること、動物を愛でること、文を書くこと、本を読むこと、お話を作ること、写真を撮ること、漫画を読むこと、漫画を描くこと、旅行に行くこと、映画を見ること、ライブに行くこと、グッズを集めること、裁縫をすること、テレビを見ること、死に物狂いで仕事をすること、常に全力疾走していること。

 

 

 

私は絵を描くことが好きだ。

綺麗で細やかな絵を描くイラストレーターはかっこいいし素敵だ。確かな画力で二次元の存在に演技をさせる絵をアニメーターを尊敬する。

だから私は、人気のイラストレーターの様に素敵な絵を好きであるべきで、絵を動かすアニメーターに憧れている、と本気で思っていた。でもなんだか少し違うのかもしれないと最近気がついた。

 

キャラクターの過去や性格や背景を考えること、ぐしゃぐしゃと汚い絵だけど考えたことを吐き出すために勢いよく描くこと、そういうことが好きなのかもしれない。そして、絵だけじゃなくてアクセサリーや小物類の雑貨のデザインを考えて作ることが好きだ。写真を撮るのもワクワクして好きだ。

 

 

 

いまや簡単にTwitterで好きなアーティストの生活や考え方に触れることが出来る世の中になった。好きなことを仕事にしている人がたくさんいて、そういう人ばかりをフォローしていた私は自然に、

「この世には好きなことを仕事にしている人しかいないのでは」

「好きなことは仕事になるようなことでなくてはいけない」

「一つのことに熱意を注いで取り組まなくてはいけない」

…という恐ろしい考え方に捕らわれていた。

 

 

好きは一つでなくてはいけないものではないし、色んな事をやってもいい。仕事になんかしなくてもいい。いつか何か一つが仕事になって、それで飯を食っていけたらとても幸福なことだ。ただしそれは、好きに正直に生きて真っ直ぐ生きてきた人がなれるもので。

私はどうやら、好きなものを利用して人に好かれようとしたり、承認されたいという思いが入り込んでいたようだ。純粋に好きなものを見つけていなかったし、封印してきたようにおもえる。

 

だからこれから、少しずつ、人に好かれなくても評価されなくても好きなものを見つけていく。まだ間に合うかもしれない、まだ間に合うかもしれない。前を向きたい。

やりたいこと、好きなことを仕事に?

やりたいことやる、好きなことを仕事にする!

 

ってやっぱりハードルが高い。

 

 

 

 

 

 

 

 

土曜日にウン時間も愚痴を話して少しすっきりし、日曜日に自己啓発本を何冊か読む…。やっぱり好きなことを仕事にするっていいなぁ。。

 

好きなことを仕事に出来てる人はそりゃあ幸せだろうし活力に満ち溢れているから本が出る。そういう人が本を出そうとするからそういう本ばかり出てくる。でもやっぱり魅力的でみんな求めている内容なんだよね。

 

 

好きなことやりたいことがまず見つからない。その見つけ方↓

・子供の頃は何が好きだったか思い出す(小さな事でも良い)

・金と地位と人間的関係に満たされたとしたら、その先に何をやりたいか

・その分野で必ず成功することが約束されている状況でやってみたいと思い浮かぶ仕事

・三日以内に死ぬとして、何をしたら後悔しないか(何が出来なかったら後悔するか)

・思うとワクワクするものを列挙する

 

…で、色々考えましたが。自分の気持ちを抑え込んで十年以上も生きてきた自分にとって、これはとても難しい…

なんとなく、これが好きだなと思いついたのは、衣装デザインを考えること・綺麗な鉱石や素敵な雑貨やガラクタの収集・配色を考えること・自由に絵を描くこと・生き物を観察すること・文を書くこと・などなど…

 

これ、考えるだけでかなり気分が良くなるのでやってみてください。ここに、でもそんなに上手くないし…今までやってこなかったのに…とか考えを入れると台無しになる気がします。そんなの考えないで、ただただ好きなことをぼやぼやと考える。

あとは、怒りを覚えることから逆算するという方法もありました。例えば、大好きなお洒落雑貨を売っているサイトがカッコ悪いから、自分がお洒落なサイトを運営するために起業!とか。

 

 

上記のことを考えて、結局、「でも仕事にならないじゃん…」ってなりますよね。なりました(白目)

というか、仕事にはなるけど、資格が必要だっり技術が必要だったり学歴が必要だったり、食っていけるか分からないとか…。で、そこでこれいいなぁと思った方法がこれ↓

 

・趣味レベルで一日五分からでも始める

 

デザインを仕事にしてみたいなぁと考えたら、まず独学でもデザインの本を読んだり実際に作ってみたりソフトにさわったりする。今はネットも発達しているし、特殊なソフトも趣味で扱う人が増えたから間口が広がっている気がするし。

このやり方を見つけたのは、心理カウンセラーを仕事にしている人だった。数千円の講座に参加してみるとか、本を読んで勉強してみるとか、無料でカウンセリングを行ったりしたようだった。

 

なるほど、これくらいからなら始められるかもしれない。

 

 

 

 

しかし、仕事は相変わらず辛い。憂鬱が止まらない。。

最近は帰り道でボロボロ泣くこともなくなったが、やっぱり週末に起き上がれないとか仕事の話をしようとすると涙が出てくるとか、治したいので今週末は心療内科に行こうと思う。少し怖い。

病気でもなんでもありませんと言われたら、ただの甘えだと割り切って自分に鞭打って勉強したり行動しようと思う。

もし薬が貰えて、それで元気に活動出来るようになるなら儲けもんである。

 

今日はまた帰ってきてからぼうっと空を眺めていたらこの時間になってしまった。明日はデザインの本を買って(帰宅時間が本屋の営業時間に間に合えばだが)、五分だけでも読んで実践できることは実践してみよう。あともう少し色々な本を読んでみようと思う。

 

 

要するに少しでも良いから何かやれ、やりたいならやれ。ってことですかね。幸せそうにみえる所へ近づくのは、厳しいんですね…

楽しい仕事

ってないのかなぁ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事がつらい、つまらない、きつい、毎日憂鬱、休日動けなくなる、休日ですら仕事のことで憂鬱…と、人に話すと

 

「仕事ってそんなもんだよ」

 

って返ってくる。

 

 

 

そんなもんなのかぁ。どの仕事もこんなもんなら転職にも希望は無いしあと40年以上もこれが続くのだとしたら、本当にみなさん何のために生きているの??

ぽじてぃぶ(小)

 仕事で苦しくてどうしようもない人、仮病でもなんでも休んだ方が良い。そういう私も仮病が使えないマジメ系クズなのだが…

仕事があるから休めない、休めない状況である人がいる。ただ、休むと、苦しくて辛くてお先真っ暗だったのが少しだけ晴れる。どんよりしたその場所から、少しでも回復出来るというのを覚えておくのは、本当に命を捨てたくなった時に踏みとどまれる理由になるかもしれない。

 

 

 

 年末年始の休みから、三連休を経て、忌引きといえど連休真っ只中。とても前向きな気分である。

パートナーや親にこの話をすると「そりゃあ休みなんだから気分が良いに決まっている」と言われるけど、違うそうじゃない。もっと根本的に気分が良い。

どんよりと曇っていた脳味噌に少し晴れ間が出来ている。

 

 と言っても、みんなが働いているなかで私だけ休んでいるんだよなぁと思い出すと一気に落ち込む。ここを割り切れるかどうかで、生きやすさが格段に違う気がする。私は生きるのが下手くそなので割り切ろうと思っても割り切れない。それでも仕事から距離を置くと気分が良い。

 

 自分があまり正常な状態ではないというのをメタ認知出来るのは、再出発のきっかけになるので良い。

状態異常のところから出発しようとすると、まず正常にするところまでの道のりが果てしなくて考えるのが辛くなる。

 

 

 

たぶんまぁ、この前向きな気分も仕事が始まったら落ち込むのだろうけど。今少し前向きになれているうちに書き残しておこうと思ったので、書き殴っておく。

 

雪が降っている。とても寒い。

死とは世界の代謝である

 祖父の葬儀があった。死因は肺炎。しかし、享年88歳ということもあり、個人的にはほぼ老衰のようなものではないかと思っている。

 

 八年前、私の実母が死んだ。四十代半ば、死因は末期癌。癌だと判明してから一年も経たずに亡くなってしまったと思う。あまりにも目まぐるしく、私にとっても家族にとっても苦しい時期だった。あまりよく覚えていない。

死ぬってなんなのだろうか、なぜ生き物は死ぬのだろうかと八年間ずっと頭の片隅で考え続けている。未だに整理がつかないのだ。

 

 

 幼い頃から、大好きな母や父や妹が死んでしまうことが怖くて怖くてたまらなかった。色々な生き物を飼っていたため、生き物が死ぬということをリアルに体験していたからだろうか。神社ではいつも、家族が長生きしますようにと願っていた。私の家族はみんな長生きをして、老衰で死ぬのだと思っていた。なのに、母は癌で若くして死んだ。

癌が判明し、治療をしていくなか目に見えて弱っていく母を見ていてもなぜか「絶対に死なない」と思っていた。お涙頂戴ドラマのように、癌に蝕まれて死んでしまうような、そんな世界はフィクションの中だけだと信じていた。

 

 出来る限り、病院へお見舞いにいった。休日も友達と遊ばずに病院で、薬の副作用で苦しむ母の横で本を読んだりしていた。

母は、最期は息が上手く出来ず、痰がからまって言葉が話せなかった。ある日、聞き取りにくい言葉を一生懸命聞いた、聞き取れたのは「(治療のために食事制限や入院をせず)もっと美味しいものを食べて好きなことやればよかったな」と言う言葉だった。絶対に治すから応援してね、と笑顔で話していた母がそう言った。

そんな死ぬようなことを言わないでくれと、涙が止まらなかった。

 

 その数日後、言葉も話せずお互いにもどかしく少しイライラしていた日だった。私はその日、宿題が山ほど出された為に少し早く帰りたかった。母は何かを伝えたくて必死に話していた。その場にいた誰もその言葉を理解出来ず、喋り疲れた母は、がっかりしたようにうなだれて伝えることを諦めた。やり取りに疲れた私は、あろうことか帰り道に、こんなに辛い毎日が来るならばいっそのこと死んでしまえば…と考えてしまった。その日の夜に母は亡くなった。

悔やんでも悔やみきれない。私があの日、もし、それを願わなければ母はもう一日でも生きられたかもしれない。命日の次の日は、初めて外出許可がおりた日で、家に帰れる予定だったのに。

痛みを遠ざけるためのモルヒネでぼんやりとした母が頭に焼き付いている。痰がからまって息ができず苦しそうな母の姿が思い出される。

もう八年間も、ずっとずっと苦しい。母はとても優しい人だったから、こんなにずっと悲しむことを望んでいないだろうと思う。でも忘れられない、辛い。苦しい。

 

ホスピスに入っていれば、もしかしたらもっと楽に逝けたかもしれない。死に目にも会えたかもしれない。伝えたいことをお互いにたくさん伝えあえたかもしれない。

家族の誰もが、母が死んでしまうかもしれない現実から逃げていた。母はもしかしたら死ぬことを受け入れたかもしれない。なのに私達が希望と治療を押しつけてしまったのかもしれない。選択しなかった世界ばかりを望んでしまう。

 

 

インターネットで見つけた、「後悔の大きさはその対象への想いの強さである」という言葉が、少しだけ私を救ってくれる。エゴに満ち溢れた言葉だが、同じように自分を罰し続けている人がいたら、もしその人の救いになるのならこの言葉を広めたい。

 

 

 八年間、ずっと考えた。なぜ人は死んでしまうのだろうか。理由がなければ、あんなに辛い思いをして生きる理由が無いではないかと。

結論から言えば、私は死ぬことに理由もなにも無いのだという結論に至った。

 

「死ぬことは世界の代謝である」。

 

髪の毛が抜け落ちるように、爪が伸びて切り落とされるように、古い細胞が死ぬように。そこに意味は無くて、世界が生きるために当たり前に必要なことなのだ。

魂を成長させるためだとか、前世の罪を償うためだとか、そんなのは全て誰かがつくりだした妄言で。私は、死んだ後は本当にただただ消えてしまうのだと考えている。魂なんて無くて、今、自分と世界を認識している脳味噌の電気信号が途絶えて消える。ただそれだけのことだ。

そして生きている人間の世界は続いていく。

 

死後の世界があるのならば、現代の科学をもってその断片でも捉えられているはずだ。死んだらそれで終わり。

 

母は幸せだっただろうか、生きていることに意味はあったのだろうか。考えても答えは出ない。出ないから、やっぱり生きることにも死ぬことにも意味は無いのだ。死後の世界も来世も分からない。分からないのは無いも同義だ。

 

今は、死ぬということは消えるということと同じ感じがする。もし死に絶える間際の人間を、小舟に乗せて海に流したとしたら、もしかしたらどこかで生きているかもしれないという希望が生まれる。シュレーディンガーの猫ってこういう話だったっけ?

 

道を歩きながら抜け落ちた髪の毛のことなど誰も気にもとめない。死ぬってたぶんそのくらいのことだ。生きることも、そんなに特別じゃない。

何のために生きているのか分からなくなってきた

 何のために生きているのかわからなくなってきた。生きることに意味など無いと、それでも何か意味が欲しくて苦しい。

 

 

 学生のころは、とにかく楽しいことをやること。多くの人と出会ってコミュ力の欠如を補強すること。好きなことややりたいことへの投資は惜しみなくすること。…などなど。

今思えばなんと幼稚な志かと溜め息が出るが、それでもたくさんやりたいことがあったのだ。そしてそれはきっと将来の自分の為になると漠然と思っていた。し、なにより毎日が楽しかった。

もちろん、落ち込むことも悲しくなることもあった。でも数日後には前向きになれていた。

 

 

 今はなにも目標が無い。やりたいことはいくつか思い浮かぶ。しかし、それをやって何になるのかと自問自答しては、虚無感に襲われて家に引きこもってしまう。

 

 私は趣味で水彩画やイラストを描く。あわよくば仕事に出来ないかと、画力の底上げを試みた時期があった。その時は、ぼんやりとだが

絵を仕事に食っていくという目標があった。寝る間も惜しんで絵を描いた。

しかし、最近は絵を描いていても、これが何になるのか。仕事になるかも分からないものに時間を費やしてどうするのか。と、そういうことばかり考える。

絵を描く楽しさは自己満足で、一時的な快感に罪悪感を覚える。

 

 

 現職は食品メーカーの開発職だ。開発職といえば理系の花形。就活しながらずっと切望していた職に就けた。この部署に配属されて半年程になる。

配属されるまでの一年は体力勝負のルーチンワーク。単純作業に脳味噌は錆び付き、肉体はボロボロに、昼飯もまともに食えず、帰り道は真顔で涙を流しながら歩いていた。もう会社で扱う製品も嫌いになっていた。ここで楽しそうに働く先輩や上司は頭が狂っているのではないかと思った。そう思わないと、馴染めない自分が酷く惨めでやり切れなかった。

それでも希望の開発職に就くために一生懸命耐えた。積極的にアピールしたし、会社で笑顔を絶やさなかったつもりだ。

 

 そうして今、念願の職に就けたわけだが。少し遅かったのかもしれない。それとも元々希望も無かったのかもしれない。もう何も生きる気力が無い。

まだ配属されたばかりのぺーぺーなので見習い業務しかしていないからかもしれない。仕事は特に楽しくない。やりがいもよく分からない。

でも他人は、念願叶って嬉しいでしょう?楽しいでしょう?と尋ねてくる。嬉しいはずなのだが、楽しいはずなのだが…違和感を覚えながら「はい、楽しいです」と答える。

 

 自分は元々、何か一つのことに燃えることに快感を覚える性質がある。頑張っている自分に、自己陶酔出来るからかもしれない。

希望していた仕事なのだから、思い切り打ち込めば良いと思う。帰宅してからも勉強して、休日は市場をリサーチすればいい。そしたら自己陶酔もできる。やりがいも出来る。

 

 しかし、どうやら世の中的には仕事は仕事で割り切って働くのが当たり前らしい。そして仕事を愛せず製品を愛せない私は今、自分の価値観と世の中の価値観のどちらが正しいのか分からなくなっている。

 

確かに仕事は仕事で割り切って、趣味に力を注いでも良い。しかし今は、上記したように趣味にも本気になれない。

仕事に打ち込もうとすれば、ある一定のラインで拒否反応が出る。この仕事にここまでやるべきなのか、無理に愛して苦しいだけだろう。と。

 

 仕事も趣味もできない。何も生み出せない。パートナーに愛される自信もない。というか休日は、何も考えずに寝ていたいと強く思う。

友人との約束も理由をつけてドタキャンしてしまうことが増えた。遊んでいる瞬間は楽しくても、一人になった途端に虚無感が襲って泣きたくなる。

好きな漫画や音楽も、こんなに素晴らしいものを生み出している人達がいるのに私は一体何が出来るのかと考え、辛くなる。

 

 

 死ぬ勇気は無い。若い年齢で病死した母を看取った時に、自殺は絶対にしないと誓った。そして、死んだら本当に空っぽになってこの世から消えてしまうのを目の当たりにし、とても怖いと思った。

でも最近は、このまま後何十年も虚無感のなかで生きるなら、今ここでこの世を去っても同じなのかもしれないなぁとかぼんやり考えることもある。そこまでいかなくとも、例えば、都合よく三カ月程足が動かなくなって出勤も外出も出来なくなればいいのにとかも考える。そしたらたくさん寝て、もしかしたら何か気力が沸くかもなんて。不謹慎な話である。

 

 

 まとまりのない長文を書いてしまった。

明日からもまた、虚無感のなかでぼんやりと生きていく。でもきっと、人前にでる私は笑顔で楽しそうに笑っている。嫌われるのが、失望されるのが怖いからだ。この虚無感は誰にも知られずに私がぎゅうと抱きしめている。

 

 

流される毎日に抗って、自分から前に(或いは横でも後ろでも良い)歩き出せる日がくればいいな。きっかけを探してもがいていくのだ。

 

 もがけているうちはまだ大丈夫かなとか、少し楽観的な自分もいる。どうにかして、自己陶酔が出来るくらいの自分になりたいものだ。

落ちはないです。おやすみなさい。

自分の声を聞けよ

自分の声を聞いてあげられるのは自分だけだ。よく聞く言葉だけど、最近は身に染みて感じる。

 

自分の声は、「何がしたい」とか「何をしたくない」とかそういう欲求の声。何が食べたいとか、何を話したいとか。

そしてその本当の声を聞いてあげられるのは自分だけなのだ。欲求を人に話すとしても、そこにはまた「人に何をどのくらい話したい」っていう自分との対話が必要になる。

 

そしてこの声を無視し続けると、自分は自分に話しかけるのをやめてしまう。自分の声が聞こえなくなる。

友人に、「〇〇がしたい」「〇〇しようよ」と話しかけ続けてるのに、そっぽを向いて無視し続けられたら話しかける気力もなくなるだろう。たぶん、それと同じことが自分の中で起きる。

 

自分が自分に話しかけなくなって、自分が何をしたいのかが分からなくなる。

表面上の自分はとりあえず目の前のことをやる。でもそれが自分がしたかったことなのか、したくないことなのか分からない。途方に暮れる。

ここで、助けて欲しくて自分の声を聞こうとする。何も聞こえない。

 

おそらく、自分が本当に食べたかったものを食べる。でも何も感じない。自分の声は「満足した」「美味しい」もなにも言わない。

おそらく、自分がしたかったことを思い切ってやってみる。でもそれが正しいのか分からずに足が竦む。「まだ頑張れる」「やっぱり無理かも」そんな声すら聞こえない。

 

 

私は一年くらい自分の声を無視し続けてきた。最近少し、自分の声が遠い。声が聞こえにくくなっているのに気がついて、怖くなった。

 

本当は何がしたい、どんなことがしたい、何を食べたい、何を見たい、何を伝えたい、何をしてほしい。

少し元気がないけど、まだ私は私に声をかけてくれている。だから今からでも、出来る限り声を聞いて答えてあげないといけないと思う。

 

だから今日の夕飯は思い切ってステーキを食べる。