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かっこいいにんげんになりたい

かっこいい人間になりたくて社会でもがき苦しんでる人の雑記です

楽しい仕事

ってないのかなぁ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事がつらい、つまらない、きつい、毎日憂鬱、休日動けなくなる、休日ですら仕事のことで憂鬱…と、人に話すと

 

「仕事ってそんなもんだよ」

 

って返ってくる。

 

 

 

そんなもんなのかぁ。どの仕事もこんなもんなら転職にも希望は無いしあと40年以上もこれが続くのだとしたら、本当にみなさん何のために生きているの??

ぽじてぃぶ(小)

 仕事で苦しくてどうしようもない人、仮病でもなんでも休んだ方が良い。そういう私も仮病が使えないマジメ系クズなのだが…

仕事があるから休めない、休めない状況である人がいる。ただ、休むと、苦しくて辛くてお先真っ暗だったのが少しだけ晴れる。どんよりしたその場所から、少しでも回復出来るというのを覚えておくのは、本当に命を捨てたくなった時に踏みとどまれる理由になるかもしれない。

 

 

 

 年末年始の休みから、三連休を経て、忌引きといえど連休真っ只中。とても前向きな気分である。

パートナーや親にこの話をすると「そりゃあ休みなんだから気分が良いに決まっている」と言われるけど、違うそうじゃない。もっと根本的に気分が良い。

どんよりと曇っていた脳味噌に少し晴れ間が出来ている。

 

 と言っても、みんなが働いているなかで私だけ休んでいるんだよなぁと思い出すと一気に落ち込む。ここを割り切れるかどうかで、生きやすさが格段に違う気がする。私は生きるのが下手くそなので割り切ろうと思っても割り切れない。それでも仕事から距離を置くと気分が良い。

 

 自分があまり正常な状態ではないというのをメタ認知出来るのは、再出発のきっかけになるので良い。

状態異常のところから出発しようとすると、まず正常にするところまでの道のりが果てしなくて考えるのが辛くなる。

 

 

 

たぶんまぁ、この前向きな気分も仕事が始まったら落ち込むのだろうけど。今少し前向きになれているうちに書き残しておこうと思ったので、書き殴っておく。

 

雪が降っている。とても寒い。

死とは世界の代謝である

 祖父の葬儀があった。死因は肺炎。しかし、享年88歳ということもあり、個人的にはほぼ老衰のようなものではないかと思っている。

 

 八年前、私の実母が死んだ。四十代半ば、死因は末期癌。癌だと判明してから一年も経たずに亡くなってしまったと思う。あまりにも目まぐるしく、私にとっても家族にとっても苦しい時期だった。あまりよく覚えていない。

死ぬってなんなのだろうか、なぜ生き物は死ぬのだろうかと八年間ずっと頭の片隅で考え続けている。未だに整理がつかないのだ。

 

 

 幼い頃から、大好きな母や父や妹が死んでしまうことが怖くて怖くてたまらなかった。色々な生き物を飼っていたため、生き物が死ぬということをリアルに体験していたからだろうか。神社ではいつも、家族が長生きしますようにと願っていた。私の家族はみんな長生きをして、老衰で死ぬのだと思っていた。なのに、母は癌で若くして死んだ。

癌が判明し、治療をしていくなか目に見えて弱っていく母を見ていてもなぜか「絶対に死なない」と思っていた。お涙頂戴ドラマのように、癌に蝕まれて死んでしまうような、そんな世界はフィクションの中だけだと信じていた。

 

 出来る限り、病院へお見舞いにいった。休日も友達と遊ばずに病院で、薬の副作用で苦しむ母の横で本を読んだりしていた。

母は、最期は息が上手く出来ず、痰がからまって言葉が話せなかった。ある日、聞き取りにくい言葉を一生懸命聞いた、聞き取れたのは「(治療のために食事制限や入院をせず)もっと美味しいものを食べて好きなことやればよかったな」と言う言葉だった。絶対に治すから応援してね、と笑顔で話していた母がそう言った。

そんな死ぬようなことを言わないでくれと、涙が止まらなかった。

 

 その数日後、言葉も話せずお互いにもどかしく少しイライラしていた日だった。私はその日、宿題が山ほど出された為に少し早く帰りたかった。母は何かを伝えたくて必死に話していた。その場にいた誰もその言葉を理解出来ず、喋り疲れた母は、がっかりしたようにうなだれて伝えることを諦めた。やり取りに疲れた私は、あろうことか帰り道に、こんなに辛い毎日が来るならばいっそのこと死んでしまえば…と考えてしまった。その日の夜に母は亡くなった。

悔やんでも悔やみきれない。私があの日、もし、それを願わなければ母はもう一日でも生きられたかもしれない。命日の次の日は、初めて外出許可がおりた日で、家に帰れる予定だったのに。

痛みを遠ざけるためのモルヒネでぼんやりとした母が頭に焼き付いている。痰がからまって息ができず苦しそうな母の姿が思い出される。

もう八年間も、ずっとずっと苦しい。母はとても優しい人だったから、こんなにずっと悲しむことを望んでいないだろうと思う。でも忘れられない、辛い。苦しい。

 

ホスピスに入っていれば、もしかしたらもっと楽に逝けたかもしれない。死に目にも会えたかもしれない。伝えたいことをお互いにたくさん伝えあえたかもしれない。

家族の誰もが、母が死んでしまうかもしれない現実から逃げていた。母はもしかしたら死ぬことを受け入れたかもしれない。なのに私達が希望と治療を押しつけてしまったのかもしれない。選択しなかった世界ばかりを望んでしまう。

 

 

インターネットで見つけた、「後悔の大きさはその対象への想いの強さである」という言葉が、少しだけ私を救ってくれる。エゴに満ち溢れた言葉だが、同じように自分を罰し続けている人がいたら、もしその人の救いになるのならこの言葉を広めたい。

 

 

 八年間、ずっと考えた。なぜ人は死んでしまうのだろうか。理由がなければ、あんなに辛い思いをして生きる理由が無いではないかと。

結論から言えば、私は死ぬことに理由もなにも無いのだという結論に至った。

 

「死ぬことは世界の代謝である」。

 

髪の毛が抜け落ちるように、爪が伸びて切り落とされるように、古い細胞が死ぬように。そこに意味は無くて、世界が生きるために当たり前に必要なことなのだ。

魂を成長させるためだとか、前世の罪を償うためだとか、そんなのは全て誰かがつくりだした妄言で。私は、死んだ後は本当にただただ消えてしまうのだと考えている。魂なんて無くて、今、自分と世界を認識している脳味噌の電気信号が途絶えて消える。ただそれだけのことだ。

そして生きている人間の世界は続いていく。

 

死後の世界があるのならば、現代の科学をもってその断片でも捉えられているはずだ。死んだらそれで終わり。

 

母は幸せだっただろうか、生きていることに意味はあったのだろうか。考えても答えは出ない。出ないから、やっぱり生きることにも死ぬことにも意味は無いのだ。死後の世界も来世も分からない。分からないのは無いも同義だ。

 

今は、死ぬということは消えるということと同じ感じがする。もし死に絶える間際の人間を、小舟に乗せて海に流したとしたら、もしかしたらどこかで生きているかもしれないという希望が生まれる。シュレーディンガーの猫ってこういう話だったっけ?

 

道を歩きながら抜け落ちた髪の毛のことなど誰も気にもとめない。死ぬってたぶんそのくらいのことだ。生きることも、そんなに特別じゃない。

何のために生きているのか分からなくなってきた

 何のために生きているのかわからなくなってきた。生きることに意味など無いと、それでも何か意味が欲しくて苦しい。

 

 

 学生のころは、とにかく楽しいことをやること。多くの人と出会ってコミュ力の欠如を補強すること。好きなことややりたいことへの投資は惜しみなくすること。…などなど。

今思えばなんと幼稚な志かと溜め息が出るが、それでもたくさんやりたいことがあったのだ。そしてそれはきっと将来の自分の為になると漠然と思っていた。し、なにより毎日が楽しかった。

もちろん、落ち込むことも悲しくなることもあった。でも数日後には前向きになれていた。

 

 

 今はなにも目標が無い。やりたいことはいくつか思い浮かぶ。しかし、それをやって何になるのかと自問自答しては、虚無感に襲われて家に引きこもってしまう。

 

 私は趣味で水彩画やイラストを描く。あわよくば仕事に出来ないかと、画力の底上げを試みた時期があった。その時は、ぼんやりとだが

絵を仕事に食っていくという目標があった。寝る間も惜しんで絵を描いた。

しかし、最近は絵を描いていても、これが何になるのか。仕事になるかも分からないものに時間を費やしてどうするのか。と、そういうことばかり考える。

絵を描く楽しさは自己満足で、一時的な快感に罪悪感を覚える。

 

 

 現職は食品メーカーの開発職だ。開発職といえば理系の花形。就活しながらずっと切望していた職に就けた。この部署に配属されて半年程になる。

配属されるまでの一年は体力勝負のルーチンワーク。単純作業に脳味噌は錆び付き、肉体はボロボロに、昼飯もまともに食えず、帰り道は真顔で涙を流しながら歩いていた。もう会社で扱う製品も嫌いになっていた。ここで楽しそうに働く先輩や上司は頭が狂っているのではないかと思った。そう思わないと、馴染めない自分が酷く惨めでやり切れなかった。

それでも希望の開発職に就くために一生懸命耐えた。積極的にアピールしたし、会社で笑顔を絶やさなかったつもりだ。

 

 そうして今、念願の職に就けたわけだが。少し遅かったのかもしれない。それとも元々希望も無かったのかもしれない。もう何も生きる気力が無い。

まだ配属されたばかりのぺーぺーなので見習い業務しかしていないからかもしれない。仕事は特に楽しくない。やりがいもよく分からない。

でも他人は、念願叶って嬉しいでしょう?楽しいでしょう?と尋ねてくる。嬉しいはずなのだが、楽しいはずなのだが…違和感を覚えながら「はい、楽しいです」と答える。

 

 自分は元々、何か一つのことに燃えることに快感を覚える性質がある。頑張っている自分に、自己陶酔出来るからかもしれない。

希望していた仕事なのだから、思い切り打ち込めば良いと思う。帰宅してからも勉強して、休日は市場をリサーチすればいい。そしたら自己陶酔もできる。やりがいも出来る。

 

 しかし、どうやら世の中的には仕事は仕事で割り切って働くのが当たり前らしい。そして仕事を愛せず製品を愛せない私は今、自分の価値観と世の中の価値観のどちらが正しいのか分からなくなっている。

 

確かに仕事は仕事で割り切って、趣味に力を注いでも良い。しかし今は、上記したように趣味にも本気になれない。

仕事に打ち込もうとすれば、ある一定のラインで拒否反応が出る。この仕事にここまでやるべきなのか、無理に愛して苦しいだけだろう。と。

 

 仕事も趣味もできない。何も生み出せない。パートナーに愛される自信もない。というか休日は、何も考えずに寝ていたいと強く思う。

友人との約束も理由をつけてドタキャンしてしまうことが増えた。遊んでいる瞬間は楽しくても、一人になった途端に虚無感が襲って泣きたくなる。

好きな漫画や音楽も、こんなに素晴らしいものを生み出している人達がいるのに私は一体何が出来るのかと考え、辛くなる。

 

 

 死ぬ勇気は無い。若い年齢で病死した母を看取った時に、自殺は絶対にしないと誓った。そして、死んだら本当に空っぽになってこの世から消えてしまうのを目の当たりにし、とても怖いと思った。

でも最近は、このまま後何十年も虚無感のなかで生きるなら、今ここでこの世を去っても同じなのかもしれないなぁとかぼんやり考えることもある。そこまでいかなくとも、例えば、都合よく三カ月程足が動かなくなって出勤も外出も出来なくなればいいのにとかも考える。そしたらたくさん寝て、もしかしたら何か気力が沸くかもなんて。不謹慎な話である。

 

 

 まとまりのない長文を書いてしまった。

明日からもまた、虚無感のなかでぼんやりと生きていく。でもきっと、人前にでる私は笑顔で楽しそうに笑っている。嫌われるのが、失望されるのが怖いからだ。この虚無感は誰にも知られずに私がぎゅうと抱きしめている。

 

 

流される毎日に抗って、自分から前に(或いは横でも後ろでも良い)歩き出せる日がくればいいな。きっかけを探してもがいていくのだ。

 

 もがけているうちはまだ大丈夫かなとか、少し楽観的な自分もいる。どうにかして、自己陶酔が出来るくらいの自分になりたいものだ。

落ちはないです。おやすみなさい。

自分の声を聞けよ

自分の声を聞いてあげられるのは自分だけだ。よく聞く言葉だけど、最近は身に染みて感じる。

 

自分の声は、「何がしたい」とか「何をしたくない」とかそういう欲求の声。何が食べたいとか、何を話したいとか。

そしてその本当の声を聞いてあげられるのは自分だけなのだ。欲求を人に話すとしても、そこにはまた「人に何をどのくらい話したい」っていう自分との対話が必要になる。

 

そしてこの声を無視し続けると、自分は自分に話しかけるのをやめてしまう。自分の声が聞こえなくなる。

友人に、「〇〇がしたい」「〇〇しようよ」と話しかけ続けてるのに、そっぽを向いて無視し続けられたら話しかける気力もなくなるだろう。たぶん、それと同じことが自分の中で起きる。

 

自分が自分に話しかけなくなって、自分が何をしたいのかが分からなくなる。

表面上の自分はとりあえず目の前のことをやる。でもそれが自分がしたかったことなのか、したくないことなのか分からない。途方に暮れる。

ここで、助けて欲しくて自分の声を聞こうとする。何も聞こえない。

 

おそらく、自分が本当に食べたかったものを食べる。でも何も感じない。自分の声は「満足した」「美味しい」もなにも言わない。

おそらく、自分がしたかったことを思い切ってやってみる。でもそれが正しいのか分からずに足が竦む。「まだ頑張れる」「やっぱり無理かも」そんな声すら聞こえない。

 

 

私は一年くらい自分の声を無視し続けてきた。最近少し、自分の声が遠い。声が聞こえにくくなっているのに気がついて、怖くなった。

 

本当は何がしたい、どんなことがしたい、何を食べたい、何を見たい、何を伝えたい、何をしてほしい。

少し元気がないけど、まだ私は私に声をかけてくれている。だから今からでも、出来る限り声を聞いて答えてあげないといけないと思う。

 

だから今日の夕飯は思い切ってステーキを食べる。

シン・ゴジラ見ました

 

シン・ゴジラ、見てきました。

色々と見終わった感想をぶちまけたくなる映画でした。久しぶりにガツンと殴られたような衝撃。

 

がっつりネタバレも含んだ感想とか考察を書き記したいと思います。

 

 

***

エヴァ好きですがそこまで深追いしてるわけでもなく、庵野監督大好きですけどそこまで信者でもなく。

特撮ファンでもないし、ましてやゴジラなんて見たこともない…という中途半端なオタクですがシン・ゴジラ見てきました。

 

公開当初は「ふーん、まぁ暇だったら見に行くか…」という程度。特撮にハマったことなかったし、怪獣にも特に興味がなかったんです。

 

しかし毎日Twitterで見かける、シン・ゴジラ絶賛の呟き…こりゃ見るしかねえな!!と、初めてのI'MAXで席を取り、ソワソワしながら劇場へ……

 

 

 

感想、いろいろ細かく書いてたんですけど面倒くさくなったので色々省略して書いてしまおうと思います。

 

 

自分の力で生き延びる

冒頭の会見で「ゴジラは上陸しません」と力強く断言する総理。直後上陸して街を破壊するゴジラ

 

実際に、ゴジラに似たような驚異が私たちの日常に迫ってきた時に思考を停止してはいけないなとリアルな恐怖を感じました。

報道を鵜呑みにして自分で考えることをやめてしまえば、危険に対処できない。

 

映画の中で描かれていた対策部隊のように、自ら考え対処していくことで生き延びられる、生きなくてはいけないと考えさせられました。

 

 

それぞれが正しい判断を下している

自衛隊が初攻撃を仕掛けようとした初のタイミング。おそらくあそこで攻撃していればゴジラもたやすく倒せたのではないかと思います。

ここで、「なんで攻撃を止めるんだ総理!!」とやきもきした方も多いはず。

 

でも、それも総理にとって正しい判断だったのだろうと思います。そりゃあ責任逃れとかもあったでしょうが…最終決定権を持った立場で国民を守る責任のある人間にとっては、あの場のあの判断が最良だったのでしょう。

 

これは各登場人物にも言えて、矢口を始めとした各人物も、皆自分の持てる限りの知恵を使って最良の判断を下し、ゴジラという脅威と戦っていきます。

頑張る人たちがかっこよく、力強く描かれていてぐっときました。

 

 

絶望と恐怖

これ、あちこちの感想で見かけますけど、本当にゴジラの登場は絶望感や恐怖がリアルで凄かった。

 

登場シーンで船や街が押し流されていくシーン。明らかに震災の津波を意識しているのだと分かりました。

しかし、だからこそリアルな恐怖とリンクして絶望感が増していた。

私は被災者ではないのでこんなことが言えるのかも知れません。

ニュースで流れる遠い街の映像よりも、身近な都市や行ったことのある場所がバキバキと壊されていく映像は、スッと頭に入ってきてとても怖かったです。

 

米軍の落とす地中貫通爆弾?の標的はゴジラであったものの、容赦ない攻撃がこれまた正体不明の恐怖感を煽る。

そしてゴジラの熱光線。うわぁ、もうだめだおしまいだって思いましたね。

 

最後のヤシオリ作戦のときも、作戦指揮を取る真上を通り過ぎてゆく光線が、いつ直撃してしまうのかとハラハラしてました。無差別で圧倒的な攻撃。こわすぎ。

 

 

核兵器

「選択肢としては有りだろうけど、それを選ぶなよ…」っていう台詞がとても印象に残ってます。

「属国であることを思い出させる」とかも。

 

「それでも日本はスクラップビルドで建て直してきた、またやり直せる」みたいなニュアンスのセリフもぐっときました。

 

深い傷を負って、どこかの国に支配されていようとも、それでも日本は力強いよな?まだやれるよな?という希望が、監督の願いのようでそれが力強く描かれていて、ああこれは監督からの問いかけなのかもしれないと思いました。

 

 

****

ゴジラ(脅威)が現れた時に対処できるのは人間だ。

日本は傷を負っている。でもその傷を忘れてはいけない。負けてもいけない。共存することは難しいけどきっと出来る。

一人一人が互いに知恵を使って、生きようとすれば活路を見いだせる。

 

恐怖を忘れるな、思考を他人に委ねるな、生きろ。

 

色々考えさせられた映画でした。(ながくなりすぎて最後投げやりな感想に…汗)

 

 

 

あ、

自衛隊VSゴジラの決戦は超絶カッコよかったです。在来線爆弾やばすぎでしょ…

その後にたたみかけるようにビル破壊。まじかーそれで頭から殴るのかー?!

 

ゴジラの熱線の描写も、ガス発射からの炎上→高熱になりプラズマ化というのが痺れる。

私の好きなものばかり攻撃される件


 初めに、私は漫画アニメ等のコンテンツが好きだ。二次元というやつ。


そして、これらのコンテンツはなにか問題が起きた際の攻撃の対象になりやすい。
今日はそのことについて文句を書き連ねようと思う。




――――

ポケモンGOに罪はあるのか

 先日、友人と今流行りのポケモンGO(以下ポケゴ)について会話していて引っかかったことがある。


「ポケゴをプレイ中に、不法侵入という罪を犯した場合に悪いのはポケゴである」


大体の人間がこう思うのだろう。言いたいことはわかる。

ポケストップが私有地に配置されているから、ポケモンが侵入禁止区域に出現するから…だからゲームが悪い。



本当にそうなのだろうか?コンテンツに罪はあるのか?

私はそう思わない。コンテンツに罪は無く、プレイヤー側にだけ罪があると考える。




本当に両方に罪があるのか

その友人は「ポケゴが存在しなければ不法侵入を侵さなかったのだから、ポケゴに罪がある。プレイヤーにも罪はあるけどポケゴも悪い。」という。


なにか物事が起こった時に、何かと関連付けて原因を究明したがる人はたくさんいる。

しかし、ここに本当に関連性はあるのだろうか。


ゲームをプレイする、プレイしない。
法律を破る、破らない。

この、別々の意志による個人の行動を混同してはいけない。




ならば全て等しく攻撃してくれ!

そもそも、ゲームにもプレイヤー側にも罪があるという説が正しいのであれば、以下の問題を引き起こすアレコレも散々に攻撃されるべきなのだ。


・河川にゴミの不法投棄を増やす花火大会
・飲酒運転で事故を起こすきっかけとなったアルコール類
・殺人事件の供述に登場するかっとなった瞬間に手元にあった刃物


上記に関してはなぜか当たり前に罪を犯した人間だけが非難される。



「ゴミを捨てる人が悪い」
「飲酒運転をする人が悪い」
「殺人をする人が悪い」


なんと驚くことに、三点目に関しては容疑者の自宅にアニメのポスターがあったという訳の分からない情報が関連付けられて報道されることもしばしばある。




まとめ

罪を犯すのはいつだって人間だ。

コンテンツを生み出すのも人間だ。

そのコンテンツを使用するのは人間だ。





利用する側が意思のある人間である限り、コンテンツに罪はない。私はそう考える。

―――――――――















追記

そもそも私がこの記事を書こうという原動力になったのは、私の好きなものばかり皆で寄ってたかって攻撃しないでくれ!!という、いかにもオタク思考が爆発した結果である。(気持ち悪いのは重々承知だ)







ポケモン赤版が私の初めてのゲームであり、カタカナの教科書はポケモン図鑑だった。



この思い出のゲームが十数年の時を経て、最新のアプリとして復活した。

世界中で愛されていることをアプリのDL数で目の当たりにする。
世界中の人が夢中になってモンスター達を捕まえている。
街を歩けばあちらこちらでトレーナーを見かける。



あの頃夢見たゲームの世界が現実に来た―
本当に嬉しいと思った。






私自身、創作という行為が好きで、学生の頃は有志と絵の展示会なども企画した。

だからなのか、ゲームや映像作品、書籍などの作り手のことをよく考える。





このゲームの製作に関わった人たちはどんな想いを込めたのだろうか。

クリエイティブ系と言われる職はどこもかしこも激務だそうだ。そんな中でどれほど命を削ったのだろう。どれほど努力して技術を手に入れたのだろう。



人の想いが詰まったコンテンツに、勝手な罪や悪意を上書きしてはいけないと思うのだ。あまりにも悲しい。



立ち位置上叩きやすいから、理解出来ないから、なんて勝手な理由で攻撃することは許せない。


どうか私の愛する作品を―キャラクターを、世界を、思い出を―攻撃しないで欲しいのだ。





本当に悪いのは何かを、思考停止しないで見つけ出してくれ。責任転嫁で安心しないでくれ。




あ、あと、理解した気になって踏み込んできて、勝手な善悪の判断で規制するような人達も私は苦手だ。






私はゲームで、色々な人やモンスターが生きる世界にたくさんの思い出を作った。(家族や友人と対戦した格闘ゲームなども大切な思い出だ)

漫画や小説で色々な物語を追体験した。

アニメで活き活きとしたキャラクターに心を奪われ、時には泣いたり笑ったりした。







私は一般的にオタク文化と言われているものが大好きだ。

だからどうか、情熱や色々な想いが自由に詰め込まれた作品が、愛されて愛されて末永く続いて欲しいと心の底から願う。

(終)